死にたいという気持ち

死にたい波は定期的にくる。最近はくるたびに、どれだけ真剣に死ぬことを考えられるか試そうと、徹底的に死について心で理解することに努める。

 

頭で死にたいなーなんて考えることはしょっちゅうだけれど、心で死を意識することの深さ、虚しさは全くちがう。それを考えるといつも涙がでてくる。

 

私が死にたいのは、嫌なことから逃げるためだ。嫌なことをしないと生き続けられない「生」をやめてしまいたいから。

いいこともあるけれど、嫌なことから逃げられるなら死んだって構わねえ、と覚悟?を決めたのは小学生のとき。あの頃の嫌なことといえば母に怒られることだったのだけど、夜怒られているとたいてい朝もそれが続く。朝が来なければいいのになー、今が永遠に続けばいいのに、と母の寝た後今の平安の心地よさだけを感じながらギリギリまで起きていることで、その時だけは未来の恐怖から逃れられると気づいた。

そして、それまでは、死にたいと思っても、友達と会ったり好きな漫画を読んだり、おばあちゃんちに遊びにいったり、死んでしまったら楽しいこともできなくなるという考えが、死にたくない!に結びついていたのだけど、ある時、それでも辛いことから逃げられるならいいや、死ねば後悔も消えるだろ、と「死んでもいいや」になった。

 

それからというもの、人生で常に「死んでもいいや」が漂い続けている。

 

なのに、心の中で「死」を感じるとなぜか涙がでてくるのは、死にたくなんかない、という心の必死の抵抗なんだろう。

苦しい辛いを周りにアピールできない弱さゆえに、私はこんなに辛いんだ!だからいいことなんかなくなったっていいくらい死にたいんだ!生きることなんてなんだっていい、死にたい死にたい!って頭は主張する。流されるままに周りの暴力を受け入れて我慢するしかできない弱い心に、頭は意地になって怒りを伝える。

そうした怒りすら心はだまって受け入れてきた。すると頭は、変わってくれない、自分たちを守るために立ち上がろうとしない、自分なんか棄てている弱い心に対してさらに意固地になって、あっそう、じゃあ死んでもいいんだね、本当に死ぬからね、あんたが立ち上がらなきゃ私は死ねっていう命令を出すからね、と、何が何でも苦しい時に「死にたい」を考え続けるのだ。

 

私の「死にたい」は、私の気持ちではない。心が辛い時、そう思わされている。死にたいと思わされているのだ。頭で考えることは、多分私自身ではない。きっとみんなそうだ。いろんな知識だとか周りの感情だとか、様々な情報で「考えさせられている」もしくは「考えているつもりになっている」。

いや、なんだか上手に表現できないのだけど、例えば勉強のできない人は劣っている、だとか可愛くない女は負けだ、とか金を稼げないのは自業自得で負け組で、そういう人間はこの時代淘汰されていくのが必然なのだ、とかそういった(自分で作り出して思い込んでるだけなんだけど)「絶対的な知識」「社会のあり方」「枠組み」の情報に思わされているのだ。「負け」も「ダメ」も「クズ」もそうした自分の価値観や知識の中で自分をランク付けてカテゴライズしているもの。だからこういう思考の人が「勝ち組」になれば、なれない人を嫌い蔑むんだろうし、自分を勝ち組だから価値ある人間と思うのだろう。私はそうだ。

 

そうした「知識」をもとに、私の頭は自分をダメなやつ、と考える。できなければダメなやつとなれば、なにかができない時、心は辛い。多分小さい頃の、親からの否定も同じ。



だから、死にたいと社会に思わされている心が、そうした理不尽な頭の暴力に抵抗して涙を流すのだろう。

私の心は死にたいなんて思ってない。